Vol.1


上田:

 最初に、そもそも、このソロ公演は、なぜやろうと思ったんですか?

金野:

 なぜかをはっきりとは思い出せない。

 やっぱり「身体の要求だった」とかしか言えんかな。

上田:

 身体の要求というのは、具体的には、ムズムズする、とかソワソワする、というような感じですか?

 要求する身体は、その場合、自己なのでしょうか?

 他者なのでしょうか?

 

(ここで、対談中に地震発生)

 

金野:

 思い出す。311を。

 阪神大震災の体験者は阪神大震災なんだろうか?

 ともかく、俺たちは地震大国にいて、幾度も幾度も地震を経験してきている。

 そして忘れる・・・

 忘れることが人間の能力という言い方もあるけど・・・

 

 質問に戻って、

 身の要求は、具体的という概念からは遠いだろうね。

 ムズムズやソワソワというオノマトペとしての表現しか成り立たないかも。

 でもそれは、実感や質感ではないわ。

 そして、その要求する身体は、自己であり他者である。

 感覚としたら他者性を帯びとるね。

上田:

 その身体の要求は、つまり、忘れない、という態度を要求しているのでしょうか?

 または、揺れ続けることを要求しているのでしょうか?

金野:

 ちょっと混ざってしまったけど、この文脈のまま行こうか。

 「忘れない」というより「思い出せ」「思い出す」が合う。

 また、「揺れ続ける」より「動き続けている」が合う。

上田:

 それは、現在にフォーカスされているということですよね。

金野:

 そうだね。

 身体の要求はいつも「今」にしかない。

 概念の世界は過去・現在・未来とあるけど、身体はいつも「今」だわ。

上田:

 すると「今」にしかできないこととして、身体が舞台上で儀礼をとり行うことを要求している、ということですね。

 この、要求されている儀礼は、何のためにあるのでしょうか?

金野:

 舞踊家 金野泰史と、

 また完全に分かつことのできない一人間としての金野泰史が「変態」するためだわ。

 「変態」とは「進歩」「進化」することだけど、その「進歩」「進化」にある種の急激さを含んだ言葉として「変態」を使っとるわ。

上田:

 なるほど、それはやはり3.11や自身の年齢などもきっかけとして、進化し、進歩することが、今、必要になったということですね。

  変態は、その「生→死」「死→生」という、進歩し、生きるための急激な進化ということだと思いますが、この変態が舞台で行われることには、どのような意味があるのでしょうか?

金野:

 舞台でやる意味というか、舞台が俺にとって、生を発露する場だと位置付けていて、この変態の要求を成し遂げるためには、舞台しかないってことかな。

 それは俺の人生に於けるイニシアチブが舞台上にあるってことでもある。

 そして、舞台というものの認識が俺にとってそれ位の姿勢をもって望むものだと捉えていることにも繋がるかな。

上田:

 なるほど、舞台に対する姿勢でもあるということですね。

 では、また、舞台は観客もあってのものという意味では、公共的な側面もありますが、この変態の儀礼は、公共的には、どのような意味があるでしょうか?

金野:

 「公共」という言葉なんだけど、元々とても怪しい言葉だと思っとるんだわ。

 俺にとって舞台とは現代で言うところの「公共」ではなく、「共感」の場だと思っていて、「共感」も怪しい言葉だが、俺の言葉で言うなら「響命」する場であることが舞台が舞台足らしめる必要条件ではないかと思っていて、もともと踊りを始めたのも、舞台が舞台足らしめていた時代の舞台を蘇生させたいと思って始めてて、舞踊、舞、踊りって原始的な表現形態でしょ、だからそもそも「公共性」という現代的な概念が、俺のやる舞台は欠けていると思う。

 因みに舞台に於ける「公共性」ってなんだろう?そもそもの「公共性」でもいいんだけどね。

 「公共」って怪しくない?

上田:

 公共だから、という理由での動員のされ方は、怪しいですね。

 そもそもの公共性は、「人」は「場」において、どう共存するか、というようなことだと思います。

 舞台における公共性は、見せようとする人がいて、見に来る人がいて、そこに共有の可能性の場ができることでしょうか。

 見せようとする人だけ、見に来る人がいるだけでは成立しない場、そこには、何か共有されるべきものが、待たれている、と思います。

金野:

 そうなんだよな。

 俺は根本的にエンターテイメントをやるつもりはさらさらなくて、ここにおけるエンターテイメントの意味は客のニーズを満たすことを目的とした演目ということなんだけど、そのために舞台をしているわけではない。

 舞台というものがそもそもエンターテイメントであるべきだというなら、俺のスタンスは破綻しとるし、そう思って観に来てもらった人には申し訳ないが、答える氣がさらさらないわけなんだわ。

  

 「共有」されるものという事に於いて、観せる者、観る者はイーブンである必要があると思うんだけど、どう?

 勿論、そこには「主客」は存在するけど、それはあくまで役割であって、場を導く者と場を支える者という構図が適切な「共有性」を育むのではないかと思うわけなんだけど、 どうだろうか?

 これは、観せる者側の主観的な捉え方でしかなのだろうか?

 とはいえ、この問題はとかく語られ続けられていて、その溝は深まりつつある様に思えるんだけど、そういうことも今回の舞台では考慮することなく望むんだけどね。

 「しせい」は「私生」でもあって、わたくしの生の変態の過程に立ち会って欲しいという、極私的な舞台であることは、今回の立ち会って貰えるひとりびとりには伝わっておいて欲しいとは思っとるわ。

 今のところ、それってやっぱり伝わってないのかな?

 個人差あると思うけど、どう思う?

上田:

 極私的な舞台であることは、伝わっていると思います。

 そのことによって、見る側も、イーブンな関係が必要とされることも、感じている人は感じていると思います。

 そして、見せる側の主観と、見る側の態度の間の溝の問題は、埋まるところでは、埋まってほしいという願いはあるのかと思います。

 しかし、それを埋めることが目的になるのではなく、あくまで、極私的な側からの、発露だということですよね。

 立ち会う、という言葉ひとつでも、受け止め方は違うと思いますが、伝わる人には伝わると思うし、伝わってない人は、立ち会えないのかもしれません。

 そうですね。そういう意味では、見た人が、「見た」と、言えるかどうかが、重要な気がします。 

金野:

 正直それが一つのボーダーラインだとも感じとるんだわ。

 舞踊を今後続けることが許されとる者としての資格と言えばいいのか…

 そもそも資格なんて必要ないし、自由にやればいいんだけど、俺の中にはその様なボーダーラインが発生したんだわ。

 身の要求…

 そのラインを越えろ!

 そう囁いとる声がする。

 これは客観的には測れない感覚だとも思うけどね。

 今までもそのラインを探し求めて来たんだけど、今回は越えろよってね(苦笑

 身体の声がさww

上田:

 それは、とても怖ろしいことですね。

 曖昧ではない越えるべきラインが目の前にあることは。

 この舞台は、作品ではなく、ドキュメンタリーということも言っていましたが、立ち会う者は、そのラインを越えるか否かを見届けることが、使命かもしれないし、それはエンターテイメント以上にエキサイティングかもしれないとも思います。

金野:

 そう、それはとてもおそろしいことだわ。

 だから、この舞台をやることがとても怖ろしかった。

 そして、今もそのおそろしさは無論あるんだけど、今の俺の心境で、このおそろしさに漢字を当てるなら「畏」だわ。

 で、ボーダーラインなんだけど…

 全く明確じゃない…

 凄く曖昧…

 上の文脈からすると、明確性があるように読み取れる氣がするかもしれんけど、よくよく鑑みてみると、凄く曖昧だと分かると思うんだけど、その一番の理由…

 なぜなら、それは未知だから。

 純粋な未知の世界って、経験則外の話。

 コンフォートゾーンの外。

 だから、エンターテイメントはエンターテイメントで勿論素晴らしいものは素晴らしいけど、エンターテイメントで得るエキサイティングさとはかけ離れた世界だと思う。

 分からんけど、本当に未知のものを受け止める勇気があって、意志があれば、それを経験することは出来るだろうけど、その準備が出来てなければ、観じられんのが、未知の世界だと思うわ。

 そういう意味に於いても、これは作品ではなく、ドキュメンタリーとも言えると思うわ。

上田:

 未知の世界、規定外、ということですね。

 普通、意識というのは、拡張的で相対的なところがあるので、最初未知の体験であっても、既知のものへ、すぐに捕獲してしまうことがあると思います。

 しかし、それは、生きていれば、たまたまでも起こることで、コンフォートゾーンからは出ていないので、今回のその、ラインの向こう、というのは、存在の全体が、飽和した向こう側、ということなのかもしれない、と思いました。

 また、それは、準備し、勇気と意志がなければできない、ということは、何かしらのイメージ、感覚を予感している、ということで、それが身体の要求としか、言い表せないものなのかな、と思います。

 僕は、今ふと、実存は本質に先立つ、という実存主義のテーゼが思い浮かび、ドキュメンタリー、という意味も、身体ひとつに、フォーカスされていくように思いました。

 

 日付け変わりましたが、8/2は、中上健次の生日でした。彼は8/12が忌日なので、どちらも夏の盛りだったんだな、と思った次第です。

 また、8月は、広島、長崎、終戦、お盆、と、供養の儀が多く、この国では、死者を想う季節とも言えます。

 なぜだか今年は、そのことが、いつの年よりも、身近なことのように思います。

金野:

 人の実存とは何なのか?

 身体の実存とは何なのか?

 生命の実存とは何なのか?

 「実存が本質に先立つ」その方向性、順番はいいとしても、実存が変容すれば、本質も変わる。

 帰納と演繹の同時進行。

 矛盾を否定せず、そのまま取り扱うこと…

 西洋哲学には明るくないのだが、「無明」に陥らない逞しさが必要だと感じる。

 

 それで、8/2に中上健次は生誕したのか。

 知らなかった。

 話は繋がっとるけど、ちょっと変わって、俺の身体観で、それそれ!っていうのが、確か「枯木灘」だと思ったけど、秋幸が山の中でスコップで土を掘り返しながら、風景に溶け込んでいくシーンがあるんだけど、晃之は覚えとる?

 あれはリアルな話なんだわ。

 小説的な表現描写じゃなくて、リアルな世界。

 それが書かれとることに氣付いたのは、健次を読み返した25.6歳の頃だったと思う。

 もうその頃は未知の身体観に出逢い、その世界を探り始めてた頃だと思う。

 その描写があって、ますます俺は健次を信用したんだわ。

上田:

 肉体労働が好きだと言って、風景に溶け込むシーン、「枯木灘」か「岬」にもあったような気がします。

 風景と一体になる、っていう感覚は、中上健次のなかでは、他にも何度も出てきますね。

 確かに印象的で説得力のあるシーンです。僕も覚えているので。

 そういう身体的なリアルさ、の世界を掘り下げていくことが、その頃からはじまっていたということですね。

金野:

 いや、今の身体観と出逢うまでは、よう分かっとらんかった。

 本当そっからだわ。

 で、その感覚がよくよく響くようになって、健次好きが再熱したんだわ。

 「千年の愉楽」を題材にしたダンス企画の舞台は、内内に好評だったのもあって、もう10年以上前だけど今でも印象深く自分の中にあるわ。

 あの頃も恐れ多いと思いながら、「千年の愉楽」やったけど、ようあの時の実力でやったもんだと思うわww

 そう、中上健次とか出すと、よく晃之とも話す共通言語としての「賞味期限」っていうワードを考えるわ。

 舞踊家 金野泰史の賞味期限…そんなことも考えつつ。

 

 

 今回はこの辺で締めようか。

 

(2017年8月3日)