Vol.2


上田:

 7月は暑かったですが、8月になって、蝉は鳴き始めましたが、少し涼しくなりました。

 蝉の声は、本来、死者を想え、と怒鳴っているべきだと思うのですが、今年の蝉は控えめな気がします。

 もしかすると、東京の蝉は、元気がないようです。

 金野さんにとって、8月はどういう季節ですか?

 

金野:

 蝉声に 死者を想え! とあてがえて・・・

 俳句になっとるかな? 8月は生と死の往来もエネルギッシュに循環する季節。

 共に噴出し冷めない季節。 腰の時期で男の時期。

 生の側の者として、溢れる生を謳歌したいと身の要求も激しくて、大好きな時期だわ。

 晃之はどう?

 

上田:

 外に出るたびに、雲が大きく見える季節ですね。

 僕は野球をやっていたこともあり、そのトンネルを抜けると、甲子園球場みたいに、空間が展ける印象があります。

 

金野:

 東京の空って狭いなって想うことが多々あることを思い出したわ。

 ちょっと郊外へ行けば、開けるけど。 蝉も少ないね。

 アスファルトに閉じ込められた生と死 それも突き破る生のありようを、アスファルトから飛び出す植物に感じてみたり。

 ここ最近特に死の氣配を身の回りに感じたりもする。それが、歳を重ねることなのかな~とかも想ってみたり。

 そして八月は蝉の声と共に戦争の影も濃くなるね。

 

上田:

 東京って、やはり特殊な都市だなって思いますね。

 アスファルトやコンクリートで閉塞された空間を、うごめく人々。しかし、だからこその輝きもあり。小さくとも空があり。

 そうですね。8月は、広島、長崎、終戦、お盆。 死者を想い起こす機会も多く、また暑さや、肌の露出や、生々しい生も放出されていて、生と死のコントラストが強く感じられます。

 戦争の記憶が、8月という季節に結びついている、この国の文化は大事にしたいと思います。

 8月の死者も生者も踊りの中

 俳句、レスポンス

 

金野:

 いいね!俳句レスポンスww

 8月は戦争の記憶か…そうだね。

 それが文化となり得る為には、俺たちはまだまだやることが沢山あるように感じるわ。

 今日稽古を終えて、考えてた。 「生前葬」って何なんだろうと。

 舞踊家 金野泰史を「供養」「成仏」することって何なんだろうって。

 晃之から観て、俺のそれらへの姿勢は、どの様に映っとる?

 

上田:

 供養、成仏、生前葬。 そうですね。 金野さんの、その姿勢は、僕には、どう映っているか、、、 なんというか、人間の業のようなものを感じますね。

 業を受け入れ、業に尽くすような。

 区切りをつけること、それは年齢であり、思いであり、日付けであり。

 区切りをつけないではいられないこと、歴史を記さないではいられないこと。

 それを身の要求として、受け入れていくこと。

 極私的でありながら、私を消していこうとすること。

 自分自身の風景と反転しようとしている。

 そんなことを思います。

 

金野:

 「矛盾」 そんな言葉が出てきたわ。

 言葉で表すと矛盾してる… 論理、ロジック、思考… 人の業って、論理や思考や概念からも発生するのかもしれないとか思ったり。

 対義語、相対、二元論…善し悪し、善悪… そもそも悪が悪いのではなく、善と悪とを分けたそのことが悪しきことだとなんかの本で読んだな〜。 共感出来るね。

 話がずれて行くから戻すと、 「矛盾」なんだけど、そこからひとつ言っておきたいのは、身体は矛盾を普通にやっているってこと。 いや、現代になぞらえて言うと、矛盾なき肉体のレイヤーは、概念化されて発生したと考えていて、その肉体は芸術には向いていない… ってこれも話が広がりすぎるなw

 「風景の反転」 それ、いいね! 「反逆する風景」って言う辺見庸のタイトルも内容も好きだったけど、「風景の反転」もいい! それに近いことを昨夜の稽古で考えててね。

 「風景の反転」を借りるなら、舞踊家 金野泰史の風景を反転させることが、供養や成仏になるんじゃないかってね。 晃之のその「風景の反転」ってどんな感覚?

 

上田:

 矛盾を含んだ状態の方が豊かであるということは、そう思うことが多々あります。 概念によるレイヤーは、説明や構成のためにあるもので、本来の存在そのものは、矛盾の固まりで。

 たとえば、何をやっても素晴らしいというような表現者は特にそういう矛盾的存在だと思います。 風景の反転、そうですね。

 映画でも音楽でも文学でも舞台でも、ある種のゾーンのようなものとして、時空を超えているように感じる瞬間があります。

 そのとき見えている心象風景のようなものは、見えているのではなく、見られているといった方が良いようなもので、全体と全体が重なるような感覚の経験です。

 そういう意味で、金野さんは今回、全存在をかけて、自身が持っている風景の全体になろうとしているのではないか、そして、反転し、見る見られるが重なる存在になろうとしているのではないか、と思いました。

 

金野:

 「矛盾」の質 ひとつそんなことを思ったわ。

 矛盾自体の質が、ロジックや概念の規定、範囲が狭くなって、直ぐに矛盾だとジャッジされて許容されなくて、匙を投げられる… 矛盾は吟味されればされるほど、その味わいが深くなる。 詩の善し悪しをジャッジする時、俺は「生きた言葉」であるか否かが大きな判断基準なんだけど、俺のいう「生きた言葉」の定義って多くの矛盾を内包しとるのかなって今思ったわ。

 岡潔が、「現代は、詩が欠けているんです」って言っとるんだけど、 上記のことを踏まえて言えば「現代は、『矛盾』が欠けているんです」ってことも言えるかも。

 で、矛盾でつなげると、風景の反転も「見る」「見られる」という真逆の方向性が同時並列の状態にある矛盾の世界とも言えるわけだ。

 この「見る」なんだけど、「見ている」「見させられている」といった、主客や能動受動の関係性だと思うんだけど、ちょっと前回の対談で、「公共」から「共有」「共鳴」または俺の言葉では「響命」の話をしたけど、この主客逆転、主客転換、主客反転…この状態が共有であり響命の必要条件としてあるなと思うわ。 で、その全体の風景とは? わたしであってわたしでなく あなたであってあなたでなく 個体に回収されないひとりであり 総体に回収されないびとりである 「見る」という文字を使う時、俺は「観る」を使うんだけど、これを音読みさせて「観じる」(かんじる)としていて、観る(みる)ことは観じる(かんじる)ことで、それは触れること。

 風景全体になるということは、どこまで観じることが出来るかという挑戦であるんだわ。

 その為の目を眼をつぶらず開け続けられるか?

 無論それは既知ではない開眼から始まるんだけど、 実際に稽古でやっとる内容はそこなんだわ。

 

(20170813)